blog1138

松本敦です。いちおう最高位戦で麻雀してます。ブログは頑張って続ける。内容はテキトー

データってなんだ

ものすごいサボっていた

考える癖、みたいなもんがある。これはやってないとどんどんなくなってしまうもので、ボーっとしてる事に慣れてしまうと、あっちゅーまに頭の中に何もない状態になる。最初は焦っているんだけど、だんだん焦ることにも疲れてきてしまう

考えながら書くということができないので、何か書こうと思って画面に向かってもダメなんですね

累積思考量の価値ってのは何がしかのもので(それは知識や経験であることもあれば、時には表現力だったりする)レバレッジしてアウトプットするものだとは思っているけど、何もなければ当然、何を掛けてもゼロのままなんで、一定の時間は0→1にする努力をしてないといけない

まあちょっとChillしすぎているので、少しずつリハビリして行きます





仕事でも考えていることなんだけど、データとは何か?

"Data"は英単語ですが、Googleで翻訳すると

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こうなってしまう

では結局データとはなんなのか。広辞苑にはこうある

①立論・計算の基礎となる、既知のあるいは認容された事実・数値。資料。与件。「実験―」
②コンピューターで処理する情報。


これでは不満(不足に感じる)なので、自分で考える事になる


5つのステップを考えた


【事実】
世の中には(恐らく有限の)「確定していること」がある。ラプラスの悪魔が知っている事の全量だと思っていいだろう。ラプラスの悪魔はあらゆる未来を見通しているので、そこに時系列の概念はない。人間の知性など(彼|それ)の前では塵に等しい。どんな知識人も、クイズマジックアカデミーで全国一位の人間も、物言わぬ蟹でも、ほとんど何も知らないという意味では等価の存在だ。この「確定していること」の総量を事実と呼ぼう。事実の総量は不変である

【認知】
人間は認知することができる。上記の通り、それは全量に対してはあまりにもひ弱だが、70億の人間が想像して認識する事の全量を(人類の)認知と呼ぼう。さっきまで僕の頭の中には何もなかったが、今は少しある。データとは何かを考え、その可能性を認知したからだ。

よく、人間の想像力は無限などど言うが、全くもって間違っているだろう。そもそも有限である時間の中で、さらに人間の認知時間は多くて100年、それをたった70億倍程度したものが、今ある人類の認知の総量だ。そしてさらに、認知を事実の一部と言うことはできない。誤りを大量に含むからだ。

目の前の事実を五感で感じることから、遠く次の次の宇宙で起こりうる事を想像することまで、人類の認知は事実の一部をこれからも明らかにしてゆくだろう。それは、事実に比べてあまりにも小さく不正確な、しかし個人にとっては大切な営みだ

【知識】
認知の中から、精一杯正確さを追い求めた結果を知識と呼ぼう。認知を知識に変えるものこそ、観測行為に他ならない。言い換えれば、認知とは仮説であり、観測とはその仮説を検証することである。

小柴先生はカミオカンデを使って、ニュートリノを科学者の認知から人類の知識へと昇華させたし、僕は経験上、マグロ丼はどこで食ってもだいたい旨いことを知っている。知識に不変なるものはなく、それゆえ学ぶ事に終わりはない

【記録】
僕はこれが苦手だ。自分の感じた事に再現性を期待していないからだ。ではなぜブログなど書くのだろうか?そもそも書けていると言えるのだろうか?それは考えても無意味な事に感じる

知識は記録される事で、説明力と再現性を手に入れる。これを「広義のデータ」の定義としよう。データとは意思を持って記録された知識の事である。皆さんの目の前にある駄文も、パピルスに記された予言も等しくデータなのだ

【規定】
ここで言う規定とはプロトコールであり、現状ではノイマン型のコンピュータで処理できるようにしたものと言って差し支えないだろう。世の中で言われているデータとは、広義のデータをデジタルで規定してインプット可能な形に置き換えたものではないだろうか。少なくとも広辞苑の定義に大きく矛盾はしていないように感じる

振り返ると、世の中の価値のほとんどは未だにデータには(広義でも狭義でも)なっていないのだろう。では、データが増える事で人生が豊かになるのかどうか。企業人としてはそのつもりで発言する必要があるが、本当のところはわからない。1,000年くらいすれば、この仮説もなにがしかのデータになっているに違いない



なんか変な飛距離の出方になったけど、頭はスッキリした

上限のあるものと無いものって何が違うんだ?みたいなことも最近考えているんだけど、それはまた後日