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松本敦です。いちおう最高位戦で麻雀してます。ブログは頑張って続ける。内容はテキトー

インターネットとの和解

僕は両親がプログラマだったので、コンピュータに触れたのが普通の人より少し早かった。僕が物心ついたときに母が使っていたマシンはおそらくPC8801で、僕が勉強するちゃぶ台からは母が仕事をしていた(母は富士通の孫請けで数人のチームでアプリケーションを作っていた)のが見え、うちのお母さんは友達の家とずいぶん違うなぁなどと思っていた。僕を含めて、母子家庭が集まるグループのようなものが幼稚園にできていて、たまに友達の家に泊まりに行ったりしていたのだ。いま思えば、友達のお母さんは水商売の人が多かったのだと思う。

話を戻して、そのころのデータのやりとりとか納品はどうしていたかというと、5インチのフロッピーに書きこんでそれを段ボールで挟み、ガムテープでグルグル巻きにして箱に詰めて発送していた。よく考えると不思議なのは、なんで何十枚もフロッピーを詰めていたのかということで、当時のプログラムのソースコードがそんなに容量を要するとは思えず、5インチフロッピーの容量は800kbくらいあったはずなのであれはいったい何だったのだろう。もしかしたら、発注元から送られてきた開発環境的なものが大容量だけだったのかもしれない。

さて当然、僕が初めて触れたマシンも8801なんだけど、最初は母の仕事を手伝っていた。コードを書く仕事の他に単純な打ち込み系の仕事もあり、母が家事をしている時によく替わりに作業していたのだ。当時は18:00からナイトライダーというアメリカのカーアクションドラマが放送されていて、それを見ながら商工会議所の会社データを打ち込むのが楽しみだった。これがおそらく、小学校にあがった辺りの時期だ。

その後、母が再婚すると我が家のPC環境は(僕にとって)大きく改善された。父は会社からマシンを持ち帰らなかった、というか当時はノートPCはそんなに気軽なものではなかったが、おそらく会社でサボるときに遊んでいたゲームを持ち帰ってきたので、僕にとってPCはゲーム機になったのだ。当時はOSがWindows3.1になっていたのも、MS-DOSに苦戦していた僕には朗報だった。あれがなければ、僕もそれなりのプログラマになれていたのではないかとも思うがとにかく、当時はイギリス?のゲームをローカライズしたポピュラスというなんとも形容し難い戦争ゲーム(1vs1でやる)をよく遊んでいた。いま思うと、あの時は家にいながら対人戦ができていたんだけど、あれはインターネット接続ではなく別の何か、Pear2Pearの接続だったはず。

中学に入学して、学校の技術室、要は図工の部屋に入ると、そこには黒いFMTOWNSが並んでいた。僕は内心、"うちのマシンより落ちるなぁ"と思ったんだけど、国立校で予算のない中、かなり頑張って設置されたと思うし、あのTOWNSで学んでいたパ研(パソコン研究会)の連中は今もGoogleで活躍したりしているわけで、すごく意味のあるマシンだと言える。僕にはあまり影響なかったけど。

そして、やっとこの辺りでインターネットというものを僕も(遅ればせながら)認知した。あれだけPCに触れていながら、なぜ普通の人より遅かったのかと言うと、家の環境が充分に面白かったので、これが世界中につながることの価値が想像できていなかったのだと思う。実際、www(いわゆる、ホームページ)を初めて見た時もそこまで感動しなかったし、PostPetでメールとかもしていたけど、電話でいいやんと思っていた。うちの家族も似たようなもので、これは後で聞いたんだけど、そもそも僕が物心ついた時に母が作っていたあのアプリケーションはキャプテンシステム向けだったらしい。キャプテンシステムというのは、全国の拠点に置かれた"キャプテン端末"から旅行の予約とか商品の購入とかができるもので、今で言うとLoppiみたいな、コンビニにあるマルチメディア端末が近いと思う。もちろん今のLoppiはインターネット上に存在してるわけだけど、当時の我が家の感覚からしたら、"あんな、不特定多数とつながる意味のわからんもんはいらん"という感じだった。

僕がこれらを必要とし始めたのは高校卒業後で、主に"パチンコの攻略サイトが見たい"と"mixiが面白い"という二つの動機によるところが大きい。そしてそれをきっかけとして、今まで閉じていた僕のコンピュータとの付き合い方は他者を巻き込んだ|まれた形に変わっていく事になる。大学の図書館で借りた「科学する麻雀」には分析用のソースコードが書いてあり、それを写経しているうちにネットでもっと進んだ研究を見つけてそっちに乗り換えたり、東大の麻雀大会で運営と総評をやってALL東大というメディアに記事を書いたり、当時の僕にとって麻雀とコンピュータを結びつけたのもまたインターネットだった。

やがて、渋谷の雀荘で知り合った先輩と一緒にネットベンチャー(今でいうスタートアップ)をやろうという事になり、目黒の駅前の一室で投資情報サイトの企画を考える日々が始まった。これは色々な意味で、僕にとっても周りにとっても良くない結果をもたらす事になるんだけど、始めた当時はとても楽しく、まだリリースもしていないのに、やっとインターネットの一員になれた気さえしていた。ところが、事業の見通しが見えなくなってくると同時に、要求されるエンジニアとしての知識に限界が来て(まあ僕も無能だった)だんだん開発についていけなくなってしまった。仕事はいくらでもあるので居場所はあったんだけど、当時はWordPressみたいな便利なものはなかったので、それなりネットワークの知識がないと大規模な会員制サイトを構築することは難しかった。最初は何とか粘っていたがついに諦めてしまい、サービスは高校の同級生に泣きついて彼に開発してもらう事になる。この時はとてもショックで、自分は所詮インターネットを"使う側"の人間なのだ、どこまでいってもお客さんなのだという事実を飲み込みきれないトラウマは、その後も余計なこだわりに形を変えて僕の中に残る事になる。
※何とまだあの頃のサービスの残滓が見つかって驚愕
prtimes.jp


そうこうしているうちに会社員になり、携帯サイトのコンテンツ配信なんかを担当する事になったんだけど、ここでも早速、"使う側"でいたくないという例のこだわりが邪魔をすることになる。インターネットそのものは諦めたとしても、このiモードというプラットフォームはなんだ、そこにさらにタダ乗り(いやタダではないんだけど)している僕の担当サービスはなんて無意味なんだ(→こんなことは誰でもできるじゃないか)、みたいなことを考えていては真面目に働くわけもなく、結果ほとんどの時間を、頼まれてもいない社内向けの業務システムを作る事に費やす事になる。まあこれは一応は習作という扱いにはしてもらったものの、その後も転職する時まで変なこだわりは捨てられなかった。

その後、コンサルになると通信会社と仕事をする事になったんだけど、この時の体験が個人的には大きな財産になっている。インターネットの正しい理解だとか、"時間と空間を越えるためのインターネット"、"通信インフラを水や空気のような当たり前のものに"みたいな、一見するとちょっと小馬鹿にしたくなるような言葉も、中の人を見ることで腑に落ちるし共感できるのだ。同時に、当時の通信会社は既に"使う側"だったはずのGoogle(とその他OTT)にやられっぱなしで、本来はTier1だった、つまり世の中のインターネットの中心にあり、誰しもが"繋がりたい"存在だった国内最強ISPも、Googleに"繋がってもらう"方法を考えなければならなかった。ちなみにこれは今もそうで、今日日のインターネットトラフィックの6割近くをYoutubeが占めている、らしい。

それはともかく、僕はこの時の経験があったから、"物も技術も使いよう"であるという当たり前の事にやっと気づけたし、一種のトラウマからも解放されることができた。個人でHPを構えて文章を吊るしておく方が恥ずかしくて(いや、やりたければやったらいいんだけど)、いま書いているようなブログサービスの方がスマートだと思えるようになった。コンピュータそのものが作れなくても、自分で言語が作れなくても、Pythonのコードが書ければデータ分析はできるし、そんなことができなくても、その結果を使って価値を出す方法はおそらく存在するだろう。10年以上かけてやっと、インターネットとの和解が成立しました。



使う側としての話ももちろんあるけど、大して面白くならなそうなので、今日言いたいことはこれくらい